九月に入って、ますます認知症の父の暴言がひどくなり、精神をえぐられる毎日です。
ヨチヨチ歩きで家の中でもしょっちゅう転び、もはや自力で起きる気もなく「オイ!オイ!オイ!オイ!」って叫び続けてるので、しばらく放置してから起こしてやるぐらいです。最近の父の流行りワードは「大学まで出してやったのにっ!!」です。わたし、怒りの沸点は低くない方なんですけど、これには真向からブチ切れてしまいます。わたしが受験生だった頃はたぶん競争率の高さがピークの時代だったので、本気で腹が立ちます。たいていおさえますが近くにいたら往復ビンタかましてしまいます。遠くにいたら物を投げます。ジジイが風呂に浸かったところを後ろから頭つかんで溺れさせてやろうかなぁ~と想像します。いちいち解剖なんかしないだろうし、完全犯罪じゃん?と思うけど、あーしまった、ここで言っちゃったからトリック(というほどのトリックでもないが)も台無し。また別の方法を考えなくちゃ。
さて、「かりん」九月号に掲載されたうたは、Yes!走り回ってようやく父を施設に放り込んだぜ!と少し楽になっていた一番いい頃かも知れません。でも施設では問題児だったのでしょっちゅう呼び出しの電話がかかってきてました。ほんと死んで。。。
今月号は、Ⅲ欄のぱらぱら~とめくったあたりに載っています。高評価な月とダメ月の差が大きいのが悩ましい。
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「かりん」9月号のうた 森田しなの
父の居ない食卓はすぐ貧相に 母は煮炊きをやめてしまった
女ふたりそれぞれ好き勝手なものを腹のおもむくまま食す日々
わが細胞そろそろスーパーぎゅーとらの総菜から作られつつあるか
ぶつかると気分が直るまでの間は互いに黙して時間を燃やす
寝室に上がれば独りの闇が待つ なんとなく母とみてるプロレス
転んだら母が電話で呼びますとお隣に頼み歌会へ行く
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かつて、三重県民愛用のスーパーぎゅーとらが短歌に詠まれたことがあっただろうか?
説明するとですね、スーパーぎゅーとらはお総菜が充実してておいしいんです。コロッケ45円とか。野菜とか買いに行ったのに、お惣菜がおいしそうでもう作るよりお惣菜買って帰った方がコスパも味もいいわ~と料理する気力をなくさせにかかってくる三重県のソウルフード的スーパーです。
そういえば、春先?に行ったとき、店内に流れる曲が普段のスーパーらしいなごやか曲から急にディープパープルの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」に変わって「ムム!ギター弾きたてのヤツが絶対イントロだけコピーしてまうアレやん」と果物売り場で聴きいってたら一曲終わったらすぐいつものスーパーの曲になって、今でもあれはわたしだけが聴いた空耳なんかも知れん、、、と思ってます。(この曲には思い入れがあって、中3の夏休みの自由研究は、自宅で兄の部屋から耳タコぐらい流れてたこの曲を和訳します、ということにして、その当時ぎりぎりCDじゃなくてレコード盤だったと思うけど付属の日本語訳を堂々の丸パクリで提出した、バレバレなんだけど英語教師も好きだったみたいでなんかほめられた、へへ。)
今月は、新しく刊行された上川涼子さんの第一歌集『水と自由』を手元に置いて、一周目で付箋をつけた好きな歌に戻ったり、ちょっと気になってなでてみたりしながらずっと一緒にいました。
わたしは以前、未来大辻欄におりましたので、上川涼子さんとはかつて同門で、オンラインで夜中まで時間を忘れて本の話やいろんな話を聞かせてもらったのを楽しく思い出します。大辻欄をやめてかりんの子になっても、短歌をやっていたらどこかで会うこともあるし、それっきりにはならない、と上川さんや同門だったみんなが背中を押してくれたこと、今でもうれしくて涙がでます。
上川さんの短歌は詩的で独特な世界が広がっていて、ずっと憧れていました。いつかまとめて一冊になって読みたいと願っていたので、本当にうれしい!
ぜひ、こちらからお読みください。
わたしの短歌はまったく逆で、自分の人生まるだしのもろだし、みめぐり四畳半短歌、って気がするからここから華麗に脱却したいのだけど、歌会などで、「ついついきれいなことを歌にしようとするけど、森田さんは飾らないところがいい」と言われたりするとエヘ~そうかしらぁ、とその気になってしまうのでした。
そういえば、8月号だったかに、「刑務所もクリスマスケーキ出てたから老人施設なら大丈夫でしょ」(細部うろおぼえ…)というような歌を送ったけれど、選で落としてくださっていたのは、これを読む人がわたしのことを刑務所から出所してきた人だと勘違いするしかない構成だからなのかな、と思い、選者の方々のおもいやりを痛感しました。短歌では文字数が足りなかったけど、刑務所は派遣先として一時期事務の仕事でコキ使われてた勤め先でした。刑務所務めならではのへえー!な話もいっぱいあるけど、それはまた今度。